2018年1月21日日曜日

「頑張」について

51歳になって数日経ったが、これといった変化は見られない。当然である。

それでも今日一つ気付いたことがある。「頑張」って言葉を最近よく使っている。頑張って言われるのも言うのも密かに好きではなかったのだ。無責任な言葉だと思っていた。腹が立つこともあった。

そんな「頑張」を今年になってから3,4回使っている。これもブログを毎日更新すると決めたからなので理由は明快だある。

「頑張」とはどんな様を表しているのだろうか。「頑」とは他人にかまわず自分の思い込みを保つ態度ださそうだ。”思い込み”とは言葉が少々悪いような気がするが、その思い込みを”張”はる。ひっぱる。はりわたす。ということになる。

そうか、頑張ということは思い込みを張り通すこととなる。思い込みが良い思い込みであろうと、悪い思い込みであろうと、関係ないのだ、思い込みだからね。

「小中学校の頃は部活で練習中は水も飲まずに頑張った」”水も飲まずに”という現在では非常識な思い込みを信じて頑張らなくていいことを頑なに頑張っていたのだ。でも、それでもよかった。ある意味素直だったのだろう、そして「頑張」を鵜呑みにする体力があったのだ。

そんな少年時代が過ぎ、青年時代になると世の中の疑問が見えてくる。見えてくるが解決策、解決するだけの能力が伴わず、「頑張」を怪訝に扱う。

壮年期になると世間の仕組みが見え、妙に物分かりが良くなり「頑張」から遠ざかる。

そして50を過ぎた今、「頑張」って言葉がサラサラっと言えていることに気付いた。老体と言うまでには程遠いが、体力の衰えは否めない。体力に自信のあった頃の感覚と記憶が消えうせず、それでいて衰えは自覚するという微妙な感覚のオーバーラップから解放されたのだ。やっと脳が認めたのだろう。熟した体を自らを励ましながら進んでいかなくてはいけない年齢に達したといことを。

自分へ言えるようになった「頑張」を、お隣さんにも言えるかもしれない。言っていいのかもしれない、恥ずかしいから言えないだろうな(笑



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